100年前、そして100年後も変わらない私たちのモットー。それは「人の役に立つ仕事」です。土木工事や建築工事などを通じて私たちが変化させてきたのは、街並みではなく、人々の暮らしそのものなのかもしれません。信頼の歴史と経験を積み重ねてきた私たちは、次の100年でも「人の役に立つ仕事」を創造していきます。
私たち西田工業の歴史は明治42年(1909年)3月に創業者西田種蔵が「西田組」を創設したことに始まります。昭和21年(1946年)には「西田工業株式会社」として法人化し、現在まで明治・大正・昭和・平成そして令和の五つの時代を見てきました。この間、多くの社会基盤整備や地域経済発展にモノづくりを通して関わってまいりました。一方、時代の変遷の中では多くの試練と苦難がありました。先人たちはそれを乗り越え、平成31年(2019年)3月には当社は創業110年を迎えることが出来ました。これもひとえに多くの方々と地域の支えが有ったからこそであると感謝申し上げます。
総合建設業の業務は世の中すべての人々の生活に直結しています。
朝起きて、外出し、学び、働き、遊び、運動をし、食事をし、家路に着く。日常生活を過ごす中で目に映る景色、自身の足元やその地中にも多くの建設物やインフラを提供してきた業界。それが建設業であり、私たちの仕事です。
人口減少時代の現代。時代の流れが大きく変わりつつある今もそこに人々の生活がある以上、地域の人々の暮らしを守り、安心と安全を提供し続けることは私たちの使命であると考えてます。これからも歴史を積み重ねながら世の中に必要とされる会社としてしっかりと社会に貢献し続けますので、引き続き「西田工業株式会社」を宜しくお願い致します。
代表取締役
次の100年のために
Change!
Challenge!!
私たちがこれまで築いてきた110年の歴史。
この歴史の中で私たちは
「心すなおに」の社是のもと
堅実経営を心掛け、
建設業一筋に歴史を刻み、
地域に根ざした事業展開で
現在の基盤を築き上げてまいりました。
この間、インフラが整備され、
住まいも働く場所も整ってまいりました。
しかし、高度経済成長を遂げた
昭和期に造られた
多くのインフラや建設物の中には
老朽化が進んでいるものが多くあります。
また、近年は自然災害が毎年のように
全国各地で発生しており、
近い将来には東南海・南海地震の発生も
予測されております。
老朽化したインフラ・建設物は
このまま放置しておくわけにはいきません。
自然災害の際には、
地域と人々の暮らしを守り、
復旧の役割を担わなければなりません。
私たちはこれまでの歴史が
そうであったように
今後もその歩みを止めることはありません。
先人が時代の変遷に対応してきたように、
これからも伝統を守りながらも
新しい時代に対応し、変化し、
新たな挑戦を進めてまいります。
これまで関わった工事への責任を果たし、
そして地域社会を守り続けるためにも
西田工業の歴史に終わりはありません。
1909年(明治42年)に京都府福知山市で土木建築請負業を開始し、
110周年を迎えた西田工業。
これまで培ってきた経験、技術、知見を活かし、
地域社会の発展に貢献する都市づくりを進めてまいりました。
毎日のように空爆を受けるなか、鉄路を守り復旧するための資材を調達するため東奔西走する、文字通り連日の激務であった。戦後は荒れ果てた鉄路を保守する業務と戦災復興の2つの大きな責務に連日多忙を極めていた。国民の大多数が茫然自失の状態にあるなか、国土復興こそ最大の国民的課題であると確信し、我々にこそできる活動にまい進した。
1970年(昭和45年)の高架橋工事は完成工事高が4億600万円と会社始まって以来の大型土木工事であった。着工の遅れを工期短縮で補う突貫工事となり、現場主任技術者に当時28歳の西田豊彰(現顧問)が着任。他社ベテラン社員と比較されつつも若手社員らと奮闘し完遂。この経験が会社にとって一大飛躍となる大きな自信に直結し、最新の安全・労務対策を取り入れる転機となった。
1986年(昭和61年)、3層4階建て高さ20mの大天守閣と2層2階建て高さ13mの小天守閣の再建に携わった。「天守台の保存と外観の再現」を目的に「野面積み」という手法で400年前に積まれた天守台の上に新たな天守閣を築く工事。重機による振動の影響を考慮し、手で直径80㎝ほどの穴を掘り進めた。完成工事高は7億1098万円で、その多くは市民らからの寄付(瓦一枚運動)で賄われた。
明治から大正、昭和、平成、
そして令和へ。
土木工事や建築工事などを手掛ける総合建設業として
時代を見つめ、未来を見定めた
新たな事業活動や社会貢献にチャレンジしています。
●1904年〜 日露戦争
現在の西田工業に至る大きな転換点となった鉄路保安工事。交通インフラを担う重要な責務を負うこととなった。
●1914年〜 第一次世界大戦
●1915年〜 大戦景気
●1923年 関東大震災
福知山の被害を受け、地元の建設会社として昼夜を問わず復旧工事に従事し、短期間で街の再興を果たす原動力となった。
●1941年〜 太平洋戦争
大阪はインフレの影響を受け経済活動が厳しい景況であった。大阪支店の閉鎖すら検討される状況だったものの、諸官庁の新規開拓で踏ん張り、今日の大阪支店の礎を築く。
これまでの経験や実績、ノウハウなどが評価され、鉄道局(国鉄)の工事の指名入札に参加できるようになった。
●1947年 日本国憲法施行
●1950年〜 朝鮮特需
●1954年〜 神武景気
●1956年 国際連合加盟
●1964年 東京五輪開催
●1965年〜 いざなぎ景気
モータリゼーション社会の到来を予見し、ガソリンスタンド(SS)の工事を開始。1968年(昭和43年)には自社による「西田商工安尾峠SS」も開設する。
西田工業始まって以来の規模となった山陽新幹線の高架橋工事。20歳代の若い力を中心に進められたため約1年間の工事期間中、工期の遅れをはじめさまざまなトラブルや問題に見舞われたものの一致団結して克服。難易度の高い工事を完了させ、安全面と技術面のノウハウが得られた貴重な経験となった。
●1970年 EXPO'70(大阪万博)開催
放送インフラの基盤整備工事として、山頂に無線中継施設を築造。ヘリコプターを使った資材搬入など山奥の工事現場での難易度が高い工事であり、以降山から山へ中継施設を設置する工事を担当する。
●1973年 第1次オイルショック
路の舗装工事に必要な赤馬アスファルト合材の販売を目的に、当時大阪支店長であった西田隆昭(現:相談役)の多大な尽力もあり、モービル石油株式会社(現:JXTGエネルギー株式会社)と合弁で赤馬アスファルト工業株式会社を設立。関連事業の拡充を進める。
初めてのトンネル工事はたった30mの小規模なものであったが、この経験により貴重なノウハウが蓄積、後のトンネル工事受注につながることとなった。
※この経験がのちの国道176号線旧道 坂浦トンネル工事の受注につながった。
●1979年 第2次オイルショック
西田工業の成長に伴い、社員数や事業所の規模も増えたが、全社一丸となった意識共有などが難しくなっていた。そこで創業時からの社訓である「心すなおに」を社是とし、新たに5ヶ条の社訓を制定。西田工業として統一指針として、現在でも心の拠り所となっている。
●1985年 プラザ合意
市民の寄付は「瓦一枚運動」と呼ばれ、瓦1枚3,000円で購入し、瓦に寄付者の名前が記載されるというもの。いまでいうクラウドファンディングである。
●1986年〜 バブル景気
日本国有鉄道(国鉄、JRの全身)が民営化される前の最後の駅舎工事を手がける。
枚方市の新築マンション群工事は、西田工業の最高額を記録する20億円の工事。土木・建築の技術力を総動員した最も大規模な工事となった。
携帯電話の急激な普及に伴い、近畿圏内においてアンテナの設置場所の選定から工事まで、これまでの通信インフラ工事の経験や技術を活かしトータルに担当することとなった。
●1995年 阪神・淡路大震災
西田工業の創立50周年を記念して建てられた建物で、西田工業をはじめ関連会社の職員の学習・研修はもちろん、文化・教養面の向上の場として使用。福知山市が水害に見舞われた際には西田記念会館に備蓄されていた災害用物資を地域のために供出するなど、防災や災害救助の面からも貢献した。
阪神・淡路大震災を契機とし、耐震工事の依頼が急増。これまで培ってきた補強工事やリニューアル工事などのノウハウを活かし、耐震工事への本格的な取り組みを開始した。
品質への関心が高まっていた時期、土木事業本部の技術を結集し8年にも及ぶ長期間、総工費25億円を超える大規模工事を完了。この時に若手として現場をまとめていた技術者たちが現在はベテランとなり、後進の指導に当たりながら土木事業本部を支えている。
●1999年〜 ITバブル
住宅のリフォームやリノベーションの要望が増加した時代背景に伴い、リニューアル工事部門を新設し顧客ニーズに対応し始める。
●2008年 リーマン・ショック
地域特性に対応するため土木工事部門および建築工事部門の事業部制を開始し、「公共工事の福知山・民間工事の大阪」体制の確立を図る。
●2011年 東日本大震災
京都北部と南部の連携を強化し地域の活性化を図る「京都府の背骨」とも呼ばれる京都縦貫自動車道 丹波綾部道路の新設工事に携わる。総工費11億円超の大規模道路工事となった。
●2012年〜 アベノミクス
経営陣の若返りを見据え、社内改革の礎を築く。
平成26年8月16日から17日にかけて降り続いた観測史上最大の雨により福知山市内にも水害が発生。1953年(昭和28年)の台風13号、2004年(平成16年)の台風23号、2013年(平成25年)の台風18号など、これまで数々の水害に見舞われた福知山市での復旧作業や復旧工事での経験を活かし、災害対策工事(治水、貯留槽)を今回初めて手掛け、迅速な復旧をサポート。その後に発生した2016年(平成28年)の台風16号による福知山市内の水害でも復旧のための各種工事や対策を担当した。
インバウンドの増加による宿泊施設の供給不足を見据え、京都支店であった建物をリノベーションしゲストハウスとするプロジェクト。時代のニーズを的確に汲み取り、保有資産の有効活用を図る。
高度経済成長期に造成された公共インフラの多くが耐用年数を超えていることもあり、それらの維持・補修を目的とした工事の本格着手を開始した。
シンカ発展をキーワードに新たな取り組みを進める。
中津の街の再生に貢献する新たな取り組みとして、さまざまなワークスタイルに合わせた新たなオフィスのカタチを提案するプロジェクト。西田工業が進める都市再生の嚆矢となる、今後を見据えた新事業である。